アンドレ・バザンは映画祭について、次のように書いている。
このカンヌ映画祭に、1946年以来、ほとんど毎回《関係》してきたわたしは、そのために、この映画祭という現象が徐々に完成してゆくのを、その典礼定式書が経験に基づいて編成されてゆくのを、それが参加者の間に必然的に階級制度を設けていくのを、目撃してきた。わたしは、このような映画祭の歴史を一教団の設立に、映画祭への全面的な参加を修道院生活の一時的な承諾に、あえてなぞらえようと思うのだ。実際、クロワゼット通りに臨んで聳え立つ「宮殿(パレ)」は、現代の映画修道院なのである。人々は多分わたしが逆説を弄しているのだと思うことだろう。だがそうではない。この比喩は、十七日間にわたる、敬虔な、厳重に《規則正しい》隠遁の生活が終わった時に、ごく自然にわたしに実感されたものなのだ。実際、もしも、沈思と瞑想との生活や、同一の超越的実在への愛による精神的一体感などとともに、戒律の存在が「教団」を定義づけるものであるとするならば、映画祭はまさに一つの「教団」に他ならない。(アンドレ・バザン「教団としての映画祭」『映画とは何か』小海永二訳、美術出版社、1967年、pp.7-8.)
小海永二 翻訳選集 第4巻 アンドレ・バザン 映画とは何かI~IV
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このカンヌ映画祭に、1946年以来、ほとんど毎回《関係》してきたわたしは、そのために、この映画祭という現象が徐々に完成してゆくのを、その典礼定式書が経験に基づいて編成されてゆくのを、それが参加者の間に必然的に階級制度を設けていくのを、目撃してきた。わたしは、このような映画祭の歴史を一教団の設立に、映画祭への全面的な参加を修道院生活の一時的な承諾に、あえてなぞらえようと思うのだ。実際、クロワゼット通りに臨んで聳え立つ「宮殿(パレ)」は、現代の映画修道院なのである。人々は多分わたしが逆説を弄しているのだと思うことだろう。だがそうではない。この比喩は、十七日間にわたる、敬虔な、厳重に《規則正しい》隠遁の生活が終わった時に、ごく自然にわたしに実感されたものなのだ。実際、もしも、沈思と瞑想との生活や、同一の超越的実在への愛による精神的一体感などとともに、戒律の存在が「教団」を定義づけるものであるとするならば、映画祭はまさに一つの「教団」に他ならない。(アンドレ・バザン「教団としての映画祭」『映画とは何か』小海永二訳、美術出版社、1967年、pp.7-8.)
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