映画の論理―新しい映画史のために加藤幹郎「夢見る映画 映画における夢の表象史」『映画の論理』(みすず書房、2005)を読む。


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クリスチャン・メッツの『映画と精神分析』以外に映画と夢を扱った真摯な研究書は見当たらない。映画史上、夢を主題にした最も古い映画の一つの『Let Me Dream Again(もう一度夢を見させてくれ)』(1900)では、夢と現実を区別するために、一種の「ピント送り」、『Hooligan's Christmas Dream(フーリガンの夢)』(1903)ではディゾルブが使われている。また、『Dream of a Rarebit Fiend(レアビット狂いの夢)』(1906)では、夢と現実が二重写しにより、同一画面に並列で示されている。それ以前の『Histoire d'un crime(ある犯罪の物語)』(1901)では実際に画面上方に作られた特別な舞台の上で夢が演じられている。

長編映画の時代になると、「夢落ち」というプロットが産まれてくる。ヤーコフ・プロタザーノフの『戦慄すべき冒険』(1920)では、途中の夢のシーンの 直後に普通の画面に戻るが、実はその部分は悪夢の続きであったという作劇になっている。プロタザーノフの『アエリータ』(1924)は、妻を殺害した上で 火星に逃亡し、そこで共産主義革命が起こるというSFだが、これも妻殺害も火星への逃亡もすべてが夢であったという結末になっている。これに対して、ロ ベール・アンリコの『ふくろうの河』(1962)は、絞首刑にされる寸前に主人公が見た良夢を描いている。

『キートンの探偵学入門』(1924)は映画と夢を積極的に混同させようとした画期的映画である。同時期の『アンダルシアの犬』(1928)は、古典的な 物語の体裁をなしていない無限の解釈の可能性のある悪夢のような作品である。これは『マロンブラ』(1917)が幻想場面にきちんと「幻想」と解説を付け ていたことからすれば隔世の感がある。

人物の顔の近接ショットが夢の導入部となり、そこからカメラが離れて全身ショットとなったとき、それはすでに夢の世界の出来事になっているという代表例は 『飾窓の女』(1944)である。『ローラ殺人事件』(1944)では、このスタイルにある種の壊乱が認められる。ふたつの相容れない解釈の間で分裂して いるのである。これは『千と千尋の神隠し』(2001)と同様である。『千と千尋の神隠し』はありふれた日常的世界から非日常的な異世界を訪れ、そこで過 酷な冒険を経験した後、精神的な成長を遂げ、もとの日常世界へ復するように見えるが、同時に観客とヒロインが見た一幕の夢に過ぎないことが暗示されてい る。

自分が死んだ夢を見るという有名な例はドライヤーの『吸血鬼』(1932)であり、そのシュールレアリスム的引用から始まるのがベルイマンの『野いち ご』(1957)である。目が覚めると自分が死んでいたという夢を見るジョン・ブーアマンの『目覚める夢を見た』(1991)もある。

クエイ兄弟の人形アニメーション『櫛(夢博物館から)』(1991)では人形と人間、動かないものと動くもの、操られるものと操るものが逆転した不思議な 「人工の夜景」が提示されており、一見すると、夢見る主体としてベッドに死んだように横たわる少女とその夢内容であろう人形による無意識の層の探索行とが 描かれている。だが、ここでは眠りは夢を発生させる装置であるというよりも、むしろ人間を人形化させる装置である。

映画は動きを再現するメディアであるため、アンディ・ウォーホルの『眠り』(1963)は眠っている人間を延々と撮影し続けた例外中の例外である。ウォー ホルの『エンパイア』(1964)もエンパイア・ステート・ビルを延々8時間捉えただけの映画である。小栗康平の『眠る男』(1996)は眠り続ける男の 周囲に日本の田舎町の伝統文化と自然美を絡めることで眠る男がその田舎町でいささかも厄介者ではない、そのような時間と空間と人間と環境の調和を描こうと して見事に失敗した作品である。
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夢に関する二重構造と二種類の観客という分析枠組みはユニークで、他の作品も同じ枠組みで分析しうる。例えば、「サスペリア」は映画の最初と最後以外はすべて夢であり、魔女を突き刺すというトリガーによって、悪夢から覚めるという構造になっているともいえる。