「アース・ビジョン地球環境映像祭」は、映像を通じて地球環境を考えることを目的に開催されているアジアで初めての国際環境映像祭だ。事務局の宇津留理子さんは13年に渡って専従スタッフをしている。
宇津さんは1997年に大学を卒業して、その年の4月にアース・ビジョン地球環境映像祭の事務局に入った。
「映像祭のスタッフになったのは偶然でした。以前から メディア関係の就職活動をしていましたが、そのなかで、6つの団体で構成されているアース・ビジョンの組織委員会の一角にグループ現代という映像制作会社があり、そこがアシスタントディレクターを募集していました。応募したところ、その職種はすでに他の方に決まっていましたが、環境をテーマにした映像祭のスタッフの募集があると紹介されました。当時は映像祭のことは知らなかったのですが、面白そうだなと思い、受けたところ採用が決まりました」
学生時代から人が集まって何かが生まれるような場に興味を持っていた宇津さん。1995年に国連北京女性会議が開かれた際には、何のネットワークもないまま一人で中国に行ってそこのNGOフォーラムに参加したこともある。
「そこでは、世界からNGOが集まって化学反応のようなものが起き、新しい ことが生まれていました。そういった場に居合わせて、何かが出会ったり、色々なことが起こったりしている場に関わりあいたいと思ったのです。その時に考えたのがメディアの仕事でしたが、映像祭の就職口があると聞いた時に、その場自体を作る仕事も面白そうだと思いました」
地球環境映像祭が始まったのは1992年のこと。ブラジルのリオで地球サミット(環境と開発に関する国際連合会議)が開かれた年だ。
アジアで初めての環境をテーマにした国際映像祭として始まり、以来毎年1回、フェスティバルをやり、そのほか年間を通じて作品を貸し出したり、上映イベントを行ったりしている。
「環境サミットが行われる際に、環境に関して映画祭を立ち上げようという企画がありました。その当時、ドイツのフライブルグでエコメディアという環境を テーマとした映像祭が既に行われており、メーンとなっている6団体から、エコメディアに視察に訪れました。そこでは世界中の映像が紹介され、監督と観客とで白熱した議論が交わされるなど、手作り感のある素敵な環境映像祭だったということでした。それに触発され、ぜひ日本でも行おうということで始まりました」
エコメディア自体は世界から作品を募集していたが、アジアからは応募がなかった。エコメディアのスタッフと相談したところ、日本で映像祭を始めるとなると、アジアで初めての国際環境映像祭となるため、映像祭を立ち上げるのであればアジアやオセアニアなどにフォーカスしたほうがいいという助言があった。そこで、当初はアジア、オセアニア、ポリネシア在住の制作者ということを応募条件にした。
立ち上げ時には苦労も多かったが、長年に渡ってNHKのディレクターやプロデューサーを務め、映像に非常に造詣の深い人物がスタッフにいたことで助かった面もあるという。組織委員会に映像制作会社のグループ現代が入っていたことも大きな支えとなった。アジアの映画作家と親交の深い映画評論家の佐藤忠男が第1回から第12回まで審査員を務めたことも映画祭に深みを与えた。
バブル崩壊後に消滅してしまったイベントも多いなか、長く継続しているイベントだ。
「それは非常に幸運でした。今19回目ですが、20回になると曲がり角が来るような気がしています。続いている理由としては、まず資金がなんとか回っているということです。協賛や助成していただいた方々が、長きに渡って支え続けてくれているのは並大抵のことではありません。特にコンペティションを行っているため、日本語版の制作費用や、新たな作品を見つけてくる費用など、映画祭自体には非常にお金がかかりますが、支援企業や助成団体に支えてきていただいたというのは非常に大きいです。もちろん、ボランティアや観客の方が支えてくださったというのが大前提ですが」
日本経済が低迷するなか、映像祭の予算も減っていることが悩みのひとつだ。
「予算はすごく減っています。今から考えると1992年の頃は夢のような予算でした。今はその時に比べると5分の1か6分の1程度になっており、現在の予算は年間で2000万円程度です。初めの頃は1億円以上あったという話ですが、今は簡単に出張することもできません」
環境保護が叫ばれるなか、環境はタイムリーなテーマともいえる。ただ、1992年当時、環境に関する意識はようやく始まるか始まらないかという状況だった。
「そのなかで協賛いただいた方々は先見の明があったと思います。ただ、その後、環境がこれだけ騒がれるようになって、支援をしてくださる企業が増えたかというと、全くそういうことはありません」
「環境がテーマだけに、例えばスポンサーに迎合しなければならないといったタブーがあれば、映像祭を存続させる理由がありません。そういった意味では、スポンサーが入っているようなプロジェクトを正面切って批判するような作品も入賞しており、タブーが無いまま来ているのは幸運だと思います。1992年からアジアの制作者の発表の場としてあり続けていて、それは存続の大きな意味のひとつではないかと思っています」
映画祭では良い作品を多く上映することが重要なポイントだ。作品集めは大切な活動になる。
「過去に応募された方にはダイレクトメールなどをお送りしています。世界には他の地域にも環境映像祭がありますので、主催者の方々に、それぞれの国の映像作家の方々に作品募集の情報を流してくださいというお願いをしています。また、例えば韓国の環境映像祭や山形国際ドキュメンタリー映画祭などの他の映画祭などに行って、映像作家の方々に声をかけています。後はウェブサイトなどでの広報です。海外の出張費がなかなか出せないので、多分本当は行くべき映画祭があるのですが、そういうところになかなか行くことができないのは痛いですね」
ヨーロッパやアメリカでは環境をテーマにした作品が多く作られているのに比べて、アジア、オセアニアなどに限ると作品を集めるのが難しいという。子供のための部門は全世界を対象にしているが、子供のためという条件が付いているので、作られている作品自体が少なく、作品集めには苦労も多い。「ただ、逆に集める意味も大きいことは確かです」と宇津さんはきっぱりと話す。
第1回から11回までは無料だったため、観客動員数の推移をきちんと把握していなかったが12回以降の記録では、毎年1000人程度をベースに上下している状況だ。
「前回は約 1100人でした。第6回の時ぐらいまで、客層はほとんどがシルバー世代でしたが、最近は色々な世代にきれいに分散しています。第1回の頃は上映が終わって会場が明るくなると、会場にいたのは委員長だけだったという笑い話もありました。観客数が増えてきて、認知が広まったのは ここ7、8年です。監督の質疑応答を始めたのが第7回からですが、その当時は質問の手がなかなか挙がりませんでした。しかし、今では観客からたくさん質問がありますし、実際質問自体もふだんから考えているのだろうなという質問が多いです。環境に関する意識も変わってきたということを身をもって感じます。作品自体も個人の映像作家の方がたくさん出てきて、大上段に振りかぶった作品だけではなく、色々な作品が作られはじめています」
非営利活動には目的やミッションが欠かせない。では、この映像祭のミッションとはどんなものなのだろうか。
「映像を通じて環境について考えたり、出会いの場を作るということです。作品に出会うことによって、考えるきっかけになるということですね。考えてからまた何か個人で行動するなり、個人の心の中にひっかかりみたいなものができて、問題意識のようなものになるということが重要だと思います」
「環境問題だけではなく、映像作品は地域の文化や生活など、人との出会いでもあるので、他の文化に出会って感じたりするきっかけになればと思います。小さいですが、地球や世界へののぞき窓のような役割であればいいし、映像作家の方にとっては観客との出会いの場です。観客の言葉によって自分の作品に出会い直 したり、今後の資金を得るためのステップアップの場だったりすることもあるでしょう」
今後の映像祭はどのようになっていくのだろうか。観客の方々へのメッセージをお願いした。
「地球環境映像祭という名前からして固そうに見えるかもしれませんが、すごく沢山の作品に出会える場です。映像制作者の方々にもアジアやオセアニアなどから来ていただくので、ぜひ作品と制作者の方々に出会いに来ていただければうれしいです」
(取材・文:矢澤利弘、インタビュー日時:2010年11月17日、敬称略)
宇津さんは1997年に大学を卒業して、その年の4月にアース・ビジョン地球環境映像祭の事務局に入った。
「映像祭のスタッフになったのは偶然でした。以前から メディア関係の就職活動をしていましたが、そのなかで、6つの団体で構成されているアース・ビジョンの組織委員会の一角にグループ現代という映像制作会社があり、そこがアシスタントディレクターを募集していました。応募したところ、その職種はすでに他の方に決まっていましたが、環境をテーマにした映像祭のスタッフの募集があると紹介されました。当時は映像祭のことは知らなかったのですが、面白そうだなと思い、受けたところ採用が決まりました」
学生時代から人が集まって何かが生まれるような場に興味を持っていた宇津さん。1995年に国連北京女性会議が開かれた際には、何のネットワークもないまま一人で中国に行ってそこのNGOフォーラムに参加したこともある。
「そこでは、世界からNGOが集まって化学反応のようなものが起き、新しい ことが生まれていました。そういった場に居合わせて、何かが出会ったり、色々なことが起こったりしている場に関わりあいたいと思ったのです。その時に考えたのがメディアの仕事でしたが、映像祭の就職口があると聞いた時に、その場自体を作る仕事も面白そうだと思いました」
地球環境映像祭が始まったのは1992年のこと。ブラジルのリオで地球サミット(環境と開発に関する国際連合会議)が開かれた年だ。
アジアで初めての環境をテーマにした国際映像祭として始まり、以来毎年1回、フェスティバルをやり、そのほか年間を通じて作品を貸し出したり、上映イベントを行ったりしている。
「環境サミットが行われる際に、環境に関して映画祭を立ち上げようという企画がありました。その当時、ドイツのフライブルグでエコメディアという環境を テーマとした映像祭が既に行われており、メーンとなっている6団体から、エコメディアに視察に訪れました。そこでは世界中の映像が紹介され、監督と観客とで白熱した議論が交わされるなど、手作り感のある素敵な環境映像祭だったということでした。それに触発され、ぜひ日本でも行おうということで始まりました」
エコメディア自体は世界から作品を募集していたが、アジアからは応募がなかった。エコメディアのスタッフと相談したところ、日本で映像祭を始めるとなると、アジアで初めての国際環境映像祭となるため、映像祭を立ち上げるのであればアジアやオセアニアなどにフォーカスしたほうがいいという助言があった。そこで、当初はアジア、オセアニア、ポリネシア在住の制作者ということを応募条件にした。
立ち上げ時には苦労も多かったが、長年に渡ってNHKのディレクターやプロデューサーを務め、映像に非常に造詣の深い人物がスタッフにいたことで助かった面もあるという。組織委員会に映像制作会社のグループ現代が入っていたことも大きな支えとなった。アジアの映画作家と親交の深い映画評論家の佐藤忠男が第1回から第12回まで審査員を務めたことも映画祭に深みを与えた。
バブル崩壊後に消滅してしまったイベントも多いなか、長く継続しているイベントだ。
「それは非常に幸運でした。今19回目ですが、20回になると曲がり角が来るような気がしています。続いている理由としては、まず資金がなんとか回っているということです。協賛や助成していただいた方々が、長きに渡って支え続けてくれているのは並大抵のことではありません。特にコンペティションを行っているため、日本語版の制作費用や、新たな作品を見つけてくる費用など、映画祭自体には非常にお金がかかりますが、支援企業や助成団体に支えてきていただいたというのは非常に大きいです。もちろん、ボランティアや観客の方が支えてくださったというのが大前提ですが」
日本経済が低迷するなか、映像祭の予算も減っていることが悩みのひとつだ。
「予算はすごく減っています。今から考えると1992年の頃は夢のような予算でした。今はその時に比べると5分の1か6分の1程度になっており、現在の予算は年間で2000万円程度です。初めの頃は1億円以上あったという話ですが、今は簡単に出張することもできません」
環境保護が叫ばれるなか、環境はタイムリーなテーマともいえる。ただ、1992年当時、環境に関する意識はようやく始まるか始まらないかという状況だった。
「そのなかで協賛いただいた方々は先見の明があったと思います。ただ、その後、環境がこれだけ騒がれるようになって、支援をしてくださる企業が増えたかというと、全くそういうことはありません」
「環境がテーマだけに、例えばスポンサーに迎合しなければならないといったタブーがあれば、映像祭を存続させる理由がありません。そういった意味では、スポンサーが入っているようなプロジェクトを正面切って批判するような作品も入賞しており、タブーが無いまま来ているのは幸運だと思います。1992年からアジアの制作者の発表の場としてあり続けていて、それは存続の大きな意味のひとつではないかと思っています」
映画祭では良い作品を多く上映することが重要なポイントだ。作品集めは大切な活動になる。
「過去に応募された方にはダイレクトメールなどをお送りしています。世界には他の地域にも環境映像祭がありますので、主催者の方々に、それぞれの国の映像作家の方々に作品募集の情報を流してくださいというお願いをしています。また、例えば韓国の環境映像祭や山形国際ドキュメンタリー映画祭などの他の映画祭などに行って、映像作家の方々に声をかけています。後はウェブサイトなどでの広報です。海外の出張費がなかなか出せないので、多分本当は行くべき映画祭があるのですが、そういうところになかなか行くことができないのは痛いですね」
ヨーロッパやアメリカでは環境をテーマにした作品が多く作られているのに比べて、アジア、オセアニアなどに限ると作品を集めるのが難しいという。子供のための部門は全世界を対象にしているが、子供のためという条件が付いているので、作られている作品自体が少なく、作品集めには苦労も多い。「ただ、逆に集める意味も大きいことは確かです」と宇津さんはきっぱりと話す。
第1回から11回までは無料だったため、観客動員数の推移をきちんと把握していなかったが12回以降の記録では、毎年1000人程度をベースに上下している状況だ。
「前回は約 1100人でした。第6回の時ぐらいまで、客層はほとんどがシルバー世代でしたが、最近は色々な世代にきれいに分散しています。第1回の頃は上映が終わって会場が明るくなると、会場にいたのは委員長だけだったという笑い話もありました。観客数が増えてきて、認知が広まったのは ここ7、8年です。監督の質疑応答を始めたのが第7回からですが、その当時は質問の手がなかなか挙がりませんでした。しかし、今では観客からたくさん質問がありますし、実際質問自体もふだんから考えているのだろうなという質問が多いです。環境に関する意識も変わってきたということを身をもって感じます。作品自体も個人の映像作家の方がたくさん出てきて、大上段に振りかぶった作品だけではなく、色々な作品が作られはじめています」
非営利活動には目的やミッションが欠かせない。では、この映像祭のミッションとはどんなものなのだろうか。
「映像を通じて環境について考えたり、出会いの場を作るということです。作品に出会うことによって、考えるきっかけになるということですね。考えてからまた何か個人で行動するなり、個人の心の中にひっかかりみたいなものができて、問題意識のようなものになるということが重要だと思います」
「環境問題だけではなく、映像作品は地域の文化や生活など、人との出会いでもあるので、他の文化に出会って感じたりするきっかけになればと思います。小さいですが、地球や世界へののぞき窓のような役割であればいいし、映像作家の方にとっては観客との出会いの場です。観客の言葉によって自分の作品に出会い直 したり、今後の資金を得るためのステップアップの場だったりすることもあるでしょう」
今後の映像祭はどのようになっていくのだろうか。観客の方々へのメッセージをお願いした。
「地球環境映像祭という名前からして固そうに見えるかもしれませんが、すごく沢山の作品に出会える場です。映像制作者の方々にもアジアやオセアニアなどから来ていただくので、ぜひ作品と制作者の方々に出会いに来ていただければうれしいです」
(取材・文:矢澤利弘、インタビュー日時:2010年11月17日、敬称略)