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(ゆうばり国際ファンタスティック映画祭でのマーク・ウォルコウ、2月26日)


映画祭の舞台裏について、キーパーソンに話を聞く「映画祭の愉しみ」。今回の主役はアメリカで日本映画の伝道師として活躍するニューヨーク・アジア映画祭のプログラミングディレクター、マーク・ウォルコウだ。

(1)からの続き。


2011年の夏で、ニューヨーク・アジア映画祭は第10回になる。マークは5年前から映画祭のスタッフになったため、映画祭の創設者というわけではない。ニューヨーク・アジア映画祭を始めたのはサブウェイシネマという組織だった。


当時のサブウェイシネマのメンバーは、1990年代にニューヨークのチャイナタウンの劇場で、いつも偶然に顔を合わせていた観客同士だった。チャイナタウンでは時々、ジャッキー・チェンの新作映画を上映していた。観客はみんな中国人だったが、そのなかに5人の白人がいた。だが程なくチャイナタウンの劇場は無くなり、アメリカではジャッキー・チェンの映画を見ることができなくなってしまった。


ニューヨークにいる香港映画やアジア映画のファンは途方に暮れた。「誰も上映しないのだったら、自分たちで上映しよう」。サブウェイシネマによる上映活動が始まった。


最初の4年間は映画祭ではなく、特集上映だけだった。ジョニー・トーのイベント、香港ホラーのイベント、カンフーのイベント、そして韓国映画特集。 韓国映画の特集では新作も旧作も上映した。上映会は当初、アジアン・フィルムズ・ア・ゴーという名前で始まり、後にニューヨーク・アジア映画祭という名前になった。


「サブウェイシネマができた当時、パートナーは5人いましたが、すぐに4人になりました。そして4人がそれぞれ2000ドルずつ出して映画祭の資金を用意しました。上映会を4回か5回やりましたが、それで資金が全部尽きました」。


第2回目か3回目の時に、マクドナルドがスポンサーに加わって、アジアン・チキンサラダのコマーシャルをしたという。「オレンジの付いたサラダでしたが、その商品が販売終了になると、スポンサーを降りてしまいました。現在、協賛いただいているスポンサーもいるのですが、本当に勇敢だなと思っていて、その方たちにはすごく感謝しています」。


「アメリカでも映画や映画祭は変わってきています。10年前には、SFやホラーといったジャンル映画は予算が少ない映画の代表例でしたが、今は予算の一番大きいジャンルになりました。ジャンル映画というものが確立していく中で、当時は、スポンサー的にも、お金を出しにくいという部分がありましたが、今は段々とジャンル映画の位置が確立してきているということで、ご理解をいただいています。アメリカではファンタスティック映画祭の観客は一番大切な観客層にな りました。現在の映画祭の観客は1万人です」。


映画祭を始めるに当たって、最も難しかったのは、ニューヨーク市内の映画館との連携だった。「どんなイベントをするにもどこの施設を使うにも、料金がものすごく高いので、映画館に承諾していただいて、そのスペースを使わせていただくということが難しいのです。アンソロジー・フィルム・アーカイブスという上映施設があり、当初、無料で施設を使わせてくれました。彼らが居なかったら、絶対映画祭は成り立たなかったでしょう」。


【つづく】

(取材・文:矢澤利弘)