若手を積極的に起用し、彼の下からはフランシス・フォード・コッポラ、マーティン・スコセッシ、ジェームズ・キャメロンといった数多くの映画監督や、 ジャック・ニコルソンら有名俳優が輩出された。世界にも広く目を向けアカデミー賞受賞作を含むイングマール・ベルイマン、フランソワ・トリュフォー、フェ デリコ・フェリーニらの名作を米国配給したことでも有名。黒澤明監督とは『デルス・ウザーラ』の米国公開を手掛けたことから親交が深かった。
1994年の第7回東京国際映画祭・京都大会でヤングシネマ・コンペティションの審査委員長を務め、当時長編2作目のガリン・ヌグロホ監督『天使への手紙』にゴールド賞を授与した。昨年はコーマンのドキュメンタリー『コーマン帝国』が特別招待作品として出品された。
審査委員長就任に際して、ロジャー・コーマンは次のようにコメントしている。
「将来を担うであろう優れたフィルムメーカーのささやかな誕生に立ち会うと、明らかな兆候が感じ取れます。そういった若手の映画製作者には、一種の知性と独創性、そして不断の努力が見られます。彼らの成功を見守り、援助するのは爽快なことです。最後に東京を訪れた時、(私の中で)アジアの映画界の全景が明らかになり、また、多くの将来性のある監督の存在に気づかされました。この度、東京国際映画祭の審査委員長として東京を訪れ、新しい才能を見出す興奮を再び体験することのできる幸運に恵まれました。今年は、これまでと同様に、新たなストーリーテラーたちに感銘を受け、刺激されることでしょう」。
<ロジャー・コーマン プロフィール>
1926年デトロイト生まれ。1953年、初めての脚本が映画製作会社アライド・アーティストに買い取られ、映画化。“Highway Dragnet”(54)という、この作品でコーマンは製作補を務めた。その収入で、翌年、『海底からの怪物』(54)を自ら製作。自主映画製作者として彼が初めて手がけたこの作品は、18,000ドルという驚くべき低予算で製作された。その後、映画会社アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ(以下AIP社)で低予算の作品を次々と手がけ、それらはすべて大成功を収めた。この一連の大ヒットでコーマンは名声を高め、製作費も増えていった。60年代を通して作られた、ヴィンセント・プライス主演、エドガー・アラン・ポー原作のホラー映画シリーズは、海外でも称賛を受ける。常に流行を生みだすコーマンは、初の“暴走族”映画『ワイルド・エンジェル』(66)を手がける。ピーター・フォンダとナンシー・シナトラ主演のこの作品は、1966年のヴェネツィア国際映画祭で上映され絶賛された。60年代後半にはサイケデリック映画のブームを生み出し、1967年にはジャック・ニコルソン脚本・主演の『白昼の幻想』(67)を手がけた。AIP社でのコーマンの成功は、同社がハリウッドで一大勢力を築く基礎となった。70年代、コーマンは自身の製作・配給会社ニューワールド・ピクチャーズを設立。ニューワールドは、アメリカ最大のインディペンデント映画配給会社へと急速に成長した。ハイテンポな娯楽映画や、カルト映画を配給したほか、世界の名作映画の米国配給を手がける代表格となった。公開作品には、アカデミー賞受賞作を含むイングマール・ベルイマン、フランソワ・トリュフォー、フェデリコ・フェリーニ、黒澤明、ヴェルナー・ヘルツォークらの監督作品もある。1983年、コーマンはニューワールド・ピクチャーズの売却を決め、作品の予算を増やすため、新会社コンコード・ニューホライズンの設立。コンコードが製作した作品には、ミミ・ロジャース、ビリー・ゼイン主演の『処刑監獄<未>』(94)、ポール・W・S・アンダーソン監督の『ショッピング』(93)など、批評家に高く評価された作品もあった。コーマンの自伝「私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか」は日本でも早川書房より出版されている。2009年、コーマンは“映画と映画人への多大なる貢献”を認められ、映画芸術科学アカデミーからアカデミー名誉賞を授与された。