世界遺産である原爆ドームはあまりにも有名だ。世界各国から旅行者が訪れ、その姿をカメラに収める。毎年8月6日の平和記念式典に、首相をはじめ広島市長や各国のVIPたちが献花する原爆死没者慰霊碑(正式名称は広島平和都市記念碑)をテレビで見た人も多いはずだ。広島平和記念資料館(原爆資料館)は原爆の惨状を後世に伝える唯一無二の施設である。

そうした有名な施設だけではなく、平和記念公園内にはあまり知られていない記念碑などが多数ある。この記事では、そうしたもののうち4つを紹介する。



これは、材木町跡を示す碑。現在、平和記念公園になっている場所は、昔から公園や広場だったわけではない。被爆前は中島地区と呼ばれ、幕末から、明治・大正にかけて広島市の中心的な繁華街としてにぎわった歴史のある街だった。

材木町という町名は、この界隈に材木商が多かったからだといわれている。また、このあたりは湿地帯だったため、材木を打ち込んで固めたからだという話も残っている。大正末期から昭和初期になると、材木商はほとんどなくなり、米屋、八百屋、酒屋、たばこ屋などの商店や民家が軒を並べた。また、町の面積の半分は寺院が占めていた。

1945年8月6日の原爆投下により、材木町は壊滅し、投下時刻に町内にいた住民は全員が死亡した。当時材木町に居住していたことが確認できたのは474人で、被爆当日に330人が死亡、さらに1945年末までに19人が亡くなったことがわかっている。



これは、天神町北組の跡を示す碑。旧天神町北組は爆心地に極めて近かったため、一瞬のうちに全滅した。当時は132世帯、約380人が住んでいたが、被爆時に家にいて生き延びた人は誰もいない。この写真に写っている銅板には、この場所で死亡した人々の名前が刻まれているが、この他にも一家全滅や旅館の宿泊者は確認の手がかりがなく、名前の不明な死亡者は少なくない。

被爆前の旧天神町北組は、医者や旅館、縫針工場や倉庫、酒、醤油、公設市場や衣料品などの商店が並ぶ町だったという。



これは碑に刻まれた詩からすぐに分かるかもしれない。詩人峠三吉の詩碑である。詩碑に刻まれているのは峠が1951年に自費出版した『原爆詩集』の序である。この詩は峠の代表作であり、原爆をテーマにした詩の中で名作のひとつとされる。峠は1953年に36歳で死去。その10年後の1963年にこの詩碑が建立された。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ



これは被爆アオギリ。アオギリは、もともと広島逓信局の中庭に4本が植えられてたが、原爆投下によって被爆した。1本は焼失したが、3本は助かった。その後、中国郵政局が新庁舎に建て替えられることに伴い、被爆アオギリは現在の平和公園内に移された。

今回は広島平和公園内にある記念碑などのうち4つだけを紹介した。これだけではなく、同公園内には様々な願いや過去の記憶が刻まれている。


(2017年8月15日、広島平和記念公園)(矢澤利弘)






川はゆく
藤岡亜弥
赤々舎
2017-07-16